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2005年06月01日

JR宝塚線(福知山線) 脱線事故について

130km/hでJR神戸線を走行するJR西日本223系新快速-2001年8月8日、常総学院が甲子園で初戦突破した日に

JR宝塚線(福知山線) 脱線事故から、まもなく40日が経とうとしております。

簡単な例をもとに考えてみましょう。
鉄の箱とアルミの箱とステンレスの箱、それと木の箱を用意します。
さて、そのそれぞれに卵を入れて、建物の2階や3階など、高いところから落としてみましょう。
…どの箱でも、もちろん中の卵は割れますね。ところが、鉄の箱なら割れないという人が余りにも多いです。
事故対策で車両の強度アップを義務付けるなどというのが、どれほどナンセンスなことかがこの一例だけでも分かるはずなのですが。現行のステンレス車体でも、例えばJR東日本の車両であれば90年代初頭に千葉県で発生した悲惨な踏切事故に鑑み、対踏切事故ならば乗客・乗員の生命を守り抜けるような衝撃吸収構造が採用されています。殆ど報道では取り上げられていませんが。ただしもちろん、このような構造を採用できるのは、車両の長手方向に受ける衝撃のみを考慮しているからであり、また踏切事故が鉄道側の努力だけでは撲滅し得ないという問題があるからです。宝塚線事故の翌日にも、常磐線でスーパーひたちとトラックが衝突する事故がありましたね。大型車進入禁止の踏切に飲酒運転で特攻したドライバーが逮捕された後、果たしてどうなったのかは分かりませんが。これは、この世界にこのようなドライバーが存在し続ける限り無くす事は非常に難しい。
ついでに言うと、車両の強度を上げるなら、衝突する可能性がある沿線の建物の強度も十分アップしなくてはなりませんね。衝突を受けたマンションが倒壊して多数の犠牲者が出る可能性があります。さてさて、衝突に耐える十二分の強度をもった物体同士が100km/h以上の速度で衝突したとしたら、車両も建物ももしかしたら両方とも大きな損傷を受けずにすむかもしれません。ところが、この世界にはエネルギー保存の法則という厄介なものがあるのです。衝突のエネルギーは、車両や建物にも損傷を与えないとしたら、どこへ行くのでしょうか? もちろん、その多くは「卵」に向かうことになるでしょう。


事故対策で鉄道車両の強度を規制するのなら、カーブ手前において速度照査を義務付けるのなら、もちろん鉄道と比較して有り得ないくらい多くの犠牲者を出している自動車の方にも、完全に事故からドライバー・歩行者・二輪車を守ってくれるような安全規制をするのでしょうね?国交省さん。もちろん、どんな事故の衝撃でも吸収してくれる車体しか車検は通りませんよね。モラルハザード対策のために一般道30~60km/h、高速60~100km/hのリミッターも必要でしょう。歩行者と二輪車を守るためにショック吸収防護服や、車道と歩道の間の完全分離壁、信号連動型自動車両停止装置の導入も早急にお願いしたいと思います。最近開発されたらしい、アルコールを検出するとエンジンが掛からない装置を義務付けることもお忘れ無く。


事故の遠因を民営化に求めようとする、鉄道には「公共性」があるのだから民営化などをしたのが間違っているのだ、と仰る方も多くいらっしゃいます。
もう、1987年以前の国鉄がどのような有様で最期を迎えたのかという事はお忘れなのでしょうか。国鉄時代にも多数の犠牲者を出す事故が何度も起こった事も、都合良く忘れてしまわれたのでしょうか。
国鉄の事をお忘れになったのなら、これは1985年生まれの自分でも覚えているもっと別の例を出しましょう。電電公社時代、電話は黒い大型のダイヤル式電話しかなかったわけです(プッシュホンも末期には出現しましたけれども、少なくとも我が家はISDN化されるまでダイヤル回線でした)。そして東京から沖縄まで、3分400円も取っていた。
これと同じ事が国鉄末期には起こっていたわけです。おまけに、国鉄には、「京」の位に達するのではないかとすら言われた莫大な額の債務までありました。


交通や通信サービスは、排除可能性(料金を払っていない利用者を排除できる可能性)がある以上、公共性はあるかもしれませんが公共財ではありません。
鉄道黎明期や、まだ電話ネットワークが全国に完成していなかった時代には、国営化の正当な理由もあったでしょうが、そういった時代がとっくに記憶だけのものとなった(記憶にない人も大分増えた)現在では、民営化する事によるサービスの向上や、安全を軽視するといったこととはまた別の次元で無駄を減らしていくことにより社会全体が得る利益の方がずっと多く、また日本人はこの事を非常によく知っているはずなのですが。
JR東日本が東中野事故の教訓をもって首都圏へのATS-P導入を急速に進めたように、交通というサービスが人や物を瑕疵なく輸送することが原則である以上、民間企業だからという理由で安全投資を怠ると断定することはできません。


交通論あるいは交通経済学における『交通』の定義とは、
1.人間またはモノが
2.特定の意図をもって
3.特定の場所の間を移動する
事象を指す。そして、その移動が『瑕疵なく』行われることが前提です。
初めから瑕疵があると分かっている交通サービスなど、誰が購入するでしょうか?

しかしながら、鉄道の歴史はそのまま事故の歴史であったわけです。
鉄道最初の死亡事故が、1830年9月15日、世界最初の旅客鉄道であるリヴァプール&マンチェスター鉄道の開業当日に発生したことは、交通の世界では有名な話で、それから170年余り、日本の鉄道において、列車に乗って事故に遭う確率は、尼崎事故前の数値ですがおよそ6×10-10/hまで低下しました。
しかしながら、それでも事故は起こりました。なぜ?


事故が起こってしまった後で、一番大切なことは、この「なぜ?」に答えることではないでしょうか? 犠牲者の遺族の「なぜ?」、毎日鉄道を通勤通学に使っている人達の「なぜ?」、日々安全運行のために尽くしてきたはずの鉄道関係者の「なぜ?」、あるいは普段は鉄道は使わないけれども旅行の時は新幹線に乗るといった人達の「なぜ?」、そういったたくさんの人々が感じたたくさんの「なぜ?」を解決することが一番大切なはずなのに。

某新聞の、記者一人だけの責任にのみ帰結させて監督責任などについては言及しなかったらしい某新聞社の記者のように、それが罵声へと転嫁されてしまうのは、とても悲しいことです。

車体の強度アップを義務付けるとか、カーブでの速度照査を義務付けるなどといった議論は、この「なぜ?」という疑問を、なぜ高見運転士はR300のカーブに100km/h以上で進入しなくてはならなかったのかという疑問を余りにも冒涜しています。


この国では「過失は犯罪=事故の現場での責任者(今回の事故の場合では、運転士、列車の最高責任者である車掌、運転士が所属していた京橋の電車区長等)は犯罪者扱い」で
すけれども、これは先進国にあっては特異なものである(通常、認識なき過失は処罰対象としない)。これまで、刑事責任追及の名の下に、事故の再発防止に役立てられることなく闇に葬られた貴重な証言がどれほどあったことか?と言うようなことがよく言われています。
徹底的な事故原因の究明のためには必要不可欠な事故関係者自身による幅広い資料・
情報の開示が行われないのは、決してJR西日本自体だけの問題ではなく、これは構造的な問題ということです。
そもそも、刑事責任を追及して被告を刑務所に放り込むのは、被疑者の再犯防止のためではないのでしょうか? それならば、鉄道事故において最も優先しなくてはならないのが原因究明・再発防止であるのは、自明のことです。そうした上で、徹底的な事故原因究明と再発防止策の実施、そして必要ならば民事訴訟における懲罰的損害賠償請求でもって犠牲者の方々に報いるべきではないのでしょうか?


JR西日本の体質があれで良かったなどと言うつもりは毛頭ありませんし、自分自身かつてJR西日本の看板列車である新快速に乗った際、ATS-Pの機能を使った高度な速度制限システムを駅付近の信号機でしか使っておらず、駅間の信号機では旧式のATS-SWのシステムをそのまま使っているのに大分驚いた記憶があります。
ただ、結局それが今に至るまで殆ど表面的なJR西日本叩きという反応に終始してしまっているのは非常に残念でならないところです。

投稿者 puszta : 2005年06月01日 22:38

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